『作者の死』ロラン・バルト ~ 物語の構造分析より 抜粋
バルザックの文にもどろう。
誰も(つまり、いかなる《人格》も)それを語っているわけではない。
この文の源、この文の声は、エクリチュールの本当の場ではない。
本当の場は、読書である。
もう一つの、きわめて明快な例が、このことを理解させてくれる。
最近の探求(J・P・ヴェルナン [ 現代フランスのギリシア学者 ] )は、ギリシア悲劇の本質的構成要素をなす両義的性質を明らかにした。
ギリシア悲劇のテクストは、二重の意味をもった語で織りなされていて、各登場人物はそれを一面的に理解する(このたえざる誤解が、まさしく《悲劇》なのである)。
ところが、それぞれの語の二重性を見抜き、そのうえ、もしこう言ってよければ、目の前で語っている登場人物たちの耳も悪ささえ見抜いている誰かがいる。
この誰かこそ、まさしく読者(ここでは聴衆)なのである。
こうしてエクリチュールの全貌が明らかになる。
一編のテクストは、いくつもの文化からやって来る多元的なエクリチュールによって構成され、これらのエクリチュールは、互いに対話をおこない、他をパロディー化し、意義をとなえあう。
しかし、この多元性が収斂する場がある。
その場とは、これまで述べてきたように、作者ではなく、読者である。
読者とは、あるエクリチュールを構成するあらゆる引用が、一つも失われることなく記入される空間にほかならない。
あるテクストの統一性は、テクストの起源ではなく、テクストの宛て先にある。
しかし、この宛て先は、もはや個人的なものではありえない。
読者とは、歴史も、伝記も、心理ももたない人間である。
彼はただ、書かれたものを構成している痕跡のすべてを、同じ一つの場に集めておく、あの誰かにすぎない。
だからこそ、偽善的にも読者の権利の援護者を自称するヒューマニズムの名において、新しいエクリチュールを断罪しようとすることは、ばかげているのだ。
古典批評は、読者のことなど決して気にかけはしなかった。
古典批評にとっては、書く人間以外の人間など、文学の中に存在しないのだ。
良き社会は、まさしくおのれが排斥し、無視し、圧殺し、破壊しているものの立場に立って、臆面もなく避難しかえしてくるが、われわれは今やこの種の反語法に欺かれなくなった。
エクリチュールにその未来を返してやるためには、こうした神話を覆さなければならない。
ということをわれわれは知っている。
読者の誕生は、「作者」の死によってあがなわれなければならないのだ。