事実だけを見る ~ 自然に不安や後悔は存在しない
こんにちは。
Do. です。
今日の自然道の動画では、
今、感じている素直な気持ちを話しました。
ケン・ウィルパーの『 無境界 』という本を参考に話を進めています。
僕たちは将来の不安や過去の後悔を感じることが多いのですが、
自然界には後悔や不安は存在しません。
そもそも、人も自然の一部でしかありません。
もう一度、自然に戻ってみましょう。
今だからこそ、そんな思いが強くなります。
動画の中で紹介したのがこの部分です。
少し長くなりますが、動画で紹介しきれなかった部分も含めて
書かせていただきますね。
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なぜ、人生はすべて対立からなっているのか、
疑問に思ったことがあるだろうか?
( 中略 )
社会的、美的価値観もまた、必ず対立に基づいている。
成敗、美醜、強弱、賢愚。
もっとも抽象的なものさえ、その根底には対立がある。
たとえば、
論理学は真実対虚偽をあつかうものであり、
認識論は外観対リアリティ、
存在論は存在対非存在をあつかっている。
われわれの世界は、
相対立するものの膨大な集合体のように見える。
この事実は、あまりにもありふれているために、
わざわざ口にする必要のないものである。
だが、考えれば考えるほど、
これは驚くほど奇妙なことである。
人が住むこの対立の世界を、
自然はまったく知らないようだからだ。
自然は真実の蛙と虚偽の蛙を生むわけでも、
貞淑な木とみだらな木を生むわけでも、
正しい海とまちがった海を生むわけでもない。
自然のなかには道徳的な山と非道徳的な山は見当たらない。
美しい種と醜い種があるわけでもないーー
自然はあらゆるものを喜んで生み出す。
そのため、
少なくとも彼女にとってはそういったことは存在しないのだ。
自然は絶対に謝らないとソローは語った。
自然は正誤の対立を知らず、
そのために人間が「まちがい」と思うことを認知しないからである。
確かに、
われわれが「対立」と呼ぶもののなかにも、
自然のなかに存在しているものもある。
たとえば、
大きな蛙と小さな蛙、
高い木と低い木、
熟れたオレンジと熟れていないオレンジなどである。
ところがそれは彼らにとって問題ではない。
発作的な不安に陥るわけではないのだ。
賢い熊と間抜けな熊がいるかもしれないが、
彼らがそんなことを気にしているとは思えない。
熊に劣等感を見出すことはできないのだ。
また、自然界にも生死がある。
だた、これもまた、
人間界のような恐れを担ってはいない。
年老いた猫は来たるべき死の恐怖さいなまれているわけではない。
静かに森に入り、
木の根元にうずくまり、死んでいく。
瀕死の駒鳥は柳の木にやすらかにとまり、
日没を見つめる。
そして、もはや光が見えなくなったとき、
最後に目を閉じてしずかに地面に落ちる。
人間の死の直面の仕方となんと違うことか。
( 中略 )
自然界にも苦痛と快楽はあるが、
それらは悩むべき問題ではない。
犬は痛いときには鳴く。
だが、そうではいときには痛みを気にしない。
来たるべき痛みを不安がったり、
過去の痛みを後悔したりしないのだ。
それはきわめて単純で自然な事態のようでもある。
( 中略 )
自然はわれわれが考える以上に賢いだけではなく、
考えがおよばないほど賢いようである。
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ちょっと視点を変えると、
今を思いっきり楽しむ。
ただ、それだけでいい。
自然は僕たちにそんなメッセージを
常に送ってくれています。