事実だけを見る ~ 自然に不安や後悔は存在しない

事実だけを見る ~ 自然に不安や後悔は存在しない

 

こんにちは。

Do. です。

 

今日の自然道の動画では、

今、感じている素直な気持ちを話しました。

 

ケン・ウィルパーの『 無境界 』という本を参考に話を進めています。

 

 

僕たちは将来の不安や過去の後悔を感じることが多いのですが、

自然界には後悔や不安は存在しません。

 

そもそも、人も自然の一部でしかありません。

 

もう一度、自然に戻ってみましょう。

今だからこそ、そんな思いが強くなります。

 

 

 

動画の中で紹介したのがこの部分です。

少し長くなりますが、動画で紹介しきれなかった部分も含めて

書かせていただきますね。

 

************************************************************

 

なぜ、人生はすべて対立からなっているのか、

疑問に思ったことがあるだろうか?

 

( 中略 )

 

社会的、美的価値観もまた、必ず対立に基づいている。

成敗、美醜、強弱、賢愚。

もっとも抽象的なものさえ、その根底には対立がある。

たとえば、

論理学は真実対虚偽をあつかうものであり、

認識論は外観対リアリティ、

存在論は存在対非存在をあつかっている。

われわれの世界は、

相対立するものの膨大な集合体のように見える。

 

この事実は、あまりにもありふれているために、

わざわざ口にする必要のないものである。

だが、考えれば考えるほど、

これは驚くほど奇妙なことである。

 

人が住むこの対立の世界を、

自然はまったく知らないようだからだ。

自然は真実の蛙と虚偽の蛙を生むわけでも、

貞淑な木とみだらな木を生むわけでも、

正しい海とまちがった海を生むわけでもない。

自然のなかには道徳的な山と非道徳的な山は見当たらない。

美しい種と醜い種があるわけでもないーー

自然はあらゆるものを喜んで生み出す。

そのため、

少なくとも彼女にとってはそういったことは存在しないのだ。

 

自然は絶対に謝らないとソローは語った。

自然は正誤の対立を知らず、

そのために人間が「まちがい」と思うことを認知しないからである。

 

確かに、

われわれが「対立」と呼ぶもののなかにも、

自然のなかに存在しているものもある。

たとえば、

大きな蛙と小さな蛙、

高い木と低い木、

熟れたオレンジと熟れていないオレンジなどである。

ところがそれは彼らにとって問題ではない。

発作的な不安に陥るわけではないのだ。

賢い熊と間抜けな熊がいるかもしれないが、

彼らがそんなことを気にしているとは思えない。

熊に劣等感を見出すことはできないのだ。

 

また、自然界にも生死がある。

だた、これもまた、

人間界のような恐れを担ってはいない。

年老いた猫は来たるべき死の恐怖さいなまれているわけではない。

静かに森に入り、

木の根元にうずくまり、死んでいく。

瀕死の駒鳥は柳の木にやすらかにとまり、

日没を見つめる。

そして、もはや光が見えなくなったとき、

最後に目を閉じてしずかに地面に落ちる。

人間の死の直面の仕方となんと違うことか。

 

( 中略 )

 

自然界にも苦痛と快楽はあるが、

それらは悩むべき問題ではない。

犬は痛いときには鳴く。

だが、そうではいときには痛みを気にしない。

来たるべき痛みを不安がったり、

過去の痛みを後悔したりしないのだ。

それはきわめて単純で自然な事態のようでもある。

 

( 中略 )

 

自然はわれわれが考える以上に賢いだけではなく、

考えがおよばないほど賢いようである。

 

************************************************************

 

 

ちょっと視点を変えると、

 

今を思いっきり楽しむ。

ただ、それだけでいい。

 

自然は僕たちにそんなメッセージを

常に送ってくれています。