私は誰?

あなたはいったい誰ですか?

 

旧ブログで非常に反響があった、私が 29 歳の時に書いた写真学校の卒論を掲載します。
投稿のきっかけは、この日(自分は何者か、が見えてきた時 本来のチャートが現れる)のブログと動画で紹介しています。

 

2012.08.16 旧ブログ投稿

今日でお盆休みも終わりという人が多いと思います。

そこで、こんな問いかけをしてみたくなりました。

あなたはいったい誰ですか?

いかがでしょうか。

即答できる方は少ないと思います。

私がこの質問に出会ったのは1993年の6月でした。

約20年前になります。

当時29歳だった私は6年間の山ぐらしを終えて、大工をしながら
夜間の写真専門学校に通っていました。

その写真学校は商業写真家より表現者としての写真家の育成に
力を入れていたので卒業論文がありました。

原稿用紙70枚程度の短いものでしたが私が取り上げたテーマが
寺山修司と沢田教一、そして岡村昭彦でした。

世田谷の下馬にある小さなアパートに住んでいた私は
二十日に一回、三軒茶屋のアムス西武(現:西友三軒茶屋店)へ
行くのが習慣になっていました。

毎日食べていた、平飼いのニワトリの卵を買うためです。

いつものように、地下の食品売り場へ行く前に
5階の本屋へ立ち寄りました。

何気なく立ち読みした雑誌でこの一節が目に飛び込んできました。

「同級生のカメラマン沢田はヴェトナムで流れ弾にあたって死に」

これは、寺山修司の絶筆になった『墓場まで何マイル?』
の中の一節でした。

当時、寺山修司については名前を知っているという程度でしたが
沢田教一については非常に興味を持っていました。

報道写真家を目指して写真学校に通っていたからです。

沢田教一はベトナム戦争を撮影した『安全への逃避』で
ピュリッツアー賞を受賞しましたがその5年後、カンボジアで
狙撃されて34歳で死亡しています。

あらゆるメディアを駆使して時代を挑発し続けた
アジテーター寺山修司と
命がけで戦場に身をおいたカメラマン沢田教一。

この、あまりにも違いすぎる二人が同じ教室で高校時代をおくった
という事実から「いのち」についての糸口をつかめるような気がして
私は青森へ向かいました。

 

「あなたは・・・」

 

2012.08.16 旧ブログ投稿

 

1993年8月12日の19時30分に八重洲口を出発する
青森行き臨時夜行バスに乗りました。

前の日は友人が伊豆に別荘を建てるのを手伝っていて
徹夜で大工をやっていたので
あっという間に眠りに落ちて気がついたら
青森市内に入っていました。

青森駅で7時11分発の中筒井行きバスに乗り換えて
青森高校へ向かいました。

寺山修司と沢田教一が一緒に過ごした高校です。

夏休みの朝7時30分という時間なので校内に人影はなく
校庭にはモミの木が3本、その巨体を空へ伸ばしていました。

弓道場で一人の生徒が練習をしていました。

彼が弓を取りに行くために道場から出てきた時
話しかけてみました。

寺山と沢田がこの学校の出身だということを
彼は知っていました。

青校生(せいこうせい)には変わり者が多い、と
彼は言っていました。

別れる時に彼は弓道についてこう言いました。

「下手でも当たる。上手くても当たらない。
 だから面白い。」

寺山について調べ始めた6月に
NHKのミッドナイトジャーナルで彼の特集がありました。

その中で、寺山が作成したインタビュー番組
「あなたは・・・」の一部が再放送されました。

彼は街へ出て幾つかのインタビューを試みます。

そして、最後に

「あなたはいったい誰ですか?」

という質問をします。

質問された人は、みんな同じように戸惑った顔をして
口ごもってしまいます。

この場面だけがなぜか強烈に印象に残っていました。

寺山はこの番組で1964年の芸術祭奨励賞を受賞します。

この時、彼は29歳で世田谷の下馬に引っ越したばかりでした。

私がこの卒論を書いたのが29歳で当時住んでいたのは
世田谷区下馬でした。

それ以来、

「あなたはいったい誰ですか?」

と自分に問いかけてきました。

そして、その手がかりを探すため当時の私は
青森市内で実際にこのインタビューをしてみました。

 

わたしはわたし

 

2012.08.17 旧ブログ投稿

 

こんな私の写真学校時代の卒論に
たくさんの反響をいただきました。

今回で終わる予定だったのですが
思いきって延長することにしました。

数年ぶりに読み返したこの卒論に私の原点があるからです。

なぜ私の人生の目的の一つが

「いのちを大切にする」

になったのか?

そして

「そのことをまわりの人たちに伝え続ける」

になったのか?

もしかしたら10回を超えてしまうかもしれません。

長期にわたって私の卒論にお付き合いいただくのも
申し訳ないので一日の投稿数を多めにしますね。

FXのブログなのですが
やはり、

「どうしてFXをするのか」

このことをしっかりとお伝えすることが大切だと感じています。

ここがぼやけていては、いくらFXを始めても
簡単に放り投げて、次の砂の城をさがす旅に出ることになります。

いつまでたっても、簡単に崩れる砂の城を
作り続ける人生です。

そこに充足感はありません。

それでは、引き続き
「あなたいったい誰ですか?」
を続けていきます。

……………………………………………………

「あなたはいったい誰ですか?」 (第3回)

東北南部は前日の8月12日にやっと梅雨が開けました。

青森はまだ梅雨が続いていて
その期間の最長記録を更新しています。

青森高校を出たあと市内中心部へ戻りインタビューを始めました。

小雨が降り続く商店街で

「あなたはいったい誰ですか?」

と問いかけ続けました。

50人から返事がもらえるまで、3時間近くかかりました。

その50人の中で即答できた人は5人もいませんでした。

29年前の東京と同じように、みんな最初は口ごもります。

最も多かった答えは「わからない」

次が「人間」、その次が「わたしはわたし」

名前を答えたのはわずか二人でした。

「哲学だね」という人もいました。

私も含めてほとんどの人が
こんな簡単な質問に答えを出さないで日常を送っているのです。

では、この質問を投げかけた寺山修司自身はどうだろう?

彼は早稲田大学在学中にネフローゼで入院します。

その時、親友の山田太一に送った手紙の中に
次のように書いています。

「僕はまもなく詩を辞すだろう。
 でも、僕は散文よりも音楽みたいな世界性のある芸術、
 芸術よりも本物の人生をはじめたい。
 君とまだ海へ行ったことがなかったね。
 退院したら行こう。」

この頃から寺山は世界を目指していたが
一方で「本物の人生」を探しはじめます。

 

心の荒野と生命の充足

 

2012.08.17 旧ブログ投稿

 

「あなたはいったい誰ですか?」  (第4回)

「あなたは・・・」を作成した2年後に刊行された
『書を捨てよ、町へ出よう』の中で寺山修司は
次のように書いています。

…………………………………………………..

あらゆる既成概念への造反は
やがては『国家』という概念への疑いにたどりつく。(中略)

60年(代)から70年(代)へかけての永い準備期間をへて、
人たちは皆『自分がほんとに欲しているものは何か?』
まさぐり始めたばかりである。

70年代は、おそらく地理の歴史のなかに、
虚構を現実のなかに包みこんで、
価値観がつくりかえられてゆくだろう。

……………………………………………………

寺山は、その作り変えられてゆく価値観の先頭に立っているという
自負がありました。

何をやっても負けることが嫌いだった彼は
時代という先が見えない終わりのないレースで
常に一番でなければ納得しなかったし
また、一番であり続けたのです。

しかし、学生時代に山田太一に送った手紙に書いたように
「本物の人生」を送り「自分がほんとに欲しているもの」を
見つけられたのでしょうか?

この答えは谷川俊太郎が次のような言葉で表現しています。

「寺山は他者との関係によってしか、自分を決められない人。
 だから、それを全部とっぱらった場合に ”俺は何なんだ” と、
 そこでの私の存在が無限に希薄になっちゃうような人だという
 気がするんです。」

「あなたはいったい誰ですか?」

そう問い続けた寺山自身、その答えを見つけられないでいました。

言葉や演劇という武器を使って常に時代に挑戦し続けた彼は
時代との関係の中で自己を認識することで
最後まで「本物の人生」を捜し続けました。

その過程で見つけた一つの答えを次のように書いています。

……………………………………………………

わたしは、友情のような人間のエモーショナルなつながりの
上にこそ、生命の充足があると信じている。

だから、政治の変革より、人間の変革、情念の変革を
めざすのだ。

福祉国家で自殺者が多いのはなぜか。
わたしは政治ではすくえない”心の荒野”を問題にするのだ。

…………………………………………………….

 

世界に認められたい

 

2012.08.18 旧ブログ投稿

 

「あなたはいったい誰ですか?」  (第5回)

「ぼくはあの時、これは凄い!
 この写真は絶対、有名になると思った。」

とUPIの写真部長ダーク・ハルステッドは当時を
振り返って言いました。

沢田が撮ってきた36枚撮りのトライXのベタ焼きをルーペで
のぞきながら5人のベトナム人母子のカットを見た時の
感想でした。

この写真「安全への逃避」はハーグの世界報道写真展で
グランプリを獲得します。

ベトナムへ正式赴任してきてからわずか2ヶ月足らずのうちに
撮ったものでした。

この受賞は、青森から出てきた田舎者のカメラマンを
一躍、世界のサワダにしてしまいました。

当時、沢田教一 29歳。

日本では、寺山が「あなたは・・・」という
インタビュー番組を作成した年です。

寺山と沢田は青森高校時代、一緒に授業をさぼって映画を
見に行く事もありましたが、特に親しい間柄では
ありませんでした。

それでも、沢田は東京UPI時代には寺山と同級だったと
何人かに誇らしげに語っています。

米兵たちにクレイジー・ジャパニーズと冗談めかして呼ばれ
「サワダの伏せる方向へ伏せれば安全さ」とまで言われた
彼はなぜベトナムへ行ったのか。

表面的な理由は単純でした。

三沢時代からキャパやブレッソンの写真を見ていた沢田は
第二のロバート・キャパになりたいと思ったのです。

しかし、この裏には当時の彼の複雑な気持ちが
絡み合っていました。

外国通信社で働く日本人はアメリカ人と比べて給料の差が
歴然としていました。

それをなくすには、ニューヨークに認められなければ
なりませんでした。

沢田にベトナム行きを決意させたのは、報道写真を撮って
第二のキャパになりたいと思う一方
ニューヨーク本社に認められたい、さらにアメリカに認められ
世界的なカメラマンになりたいと思う強い欲望がありました。

そして、このころ彼は偶然、香港で岡村昭彦に出会います。

当時の岡村は『ライフ』に写真を発表して華々しく
活躍し始めていました。

「どんな写真を撮る目的でサイゴン(現:ホーチミン)に
 来るのか。」という岡村の問いに

「展覧会に出すための写真をとりにいきます。」

と沢田は答えています。

寺山の行動が、時代を敏感に感じ取りながら
その次代に挑戦するという意識から生まれてきたのに対し
沢田の行動は、時代に直接刺激されて
その時代に認められたいという欲望から生まれていました。

 

戦争が単純なものだったら・・・

 

2012.08.18 旧ブログ投稿

 

「あなたはいったい誰ですか?」  (第6回)

「安全への逃避」がハーグの世界報道写真展でグランプリを
獲得した翌年、沢田教一はピュリツアー賞をも
受賞してしまいます。

それ以来、沢田の野心は大きくなりました。

友人のエディ・アダムスカメラマンに次のように言っています。

「ぼくは2度めのピュリッツアー賞をとるんだ。
 もうひとつ欲しい。
 良いカメラマンは自分自身の良さをを
 常に証明し続けなければならない。」

しかし、彼は激しい戦火をくぐりながら

戦争とは?

自分とは?

という問いを、いつも自分に投げかけていたのだと思います。

同僚のUPIの女性記者ケイト・ウェブと
放棄された滑走路に横になって一夜を明かした時
星空を見ながらこんなことを言っています。

「ああ、この戦争がぼくの人生の半分くらいに
 単純なものだったらなあ。」

「こんな戦争の見方はそれまで聞いたこともなかった。」
と彼女は語っています。

同じUPIのムービーカメラマン、チャン・ダイ・ミンは

「本当に優しい人だった。
 ベトナム人でも同じように扱ってくれた。
 ・・・彼は戦争を憎んでいた。
 ベトナム人の気持ちをよく汲み取っていた。
 だからああいう写真がとれたんだ。」

と話しています。

戦場という異常な世界で、彼は優しさを失わないでいました。

ロバート・キャパも戦場で次のような経験をしています。

「『写真屋!どんな気持で写真が撮れるんだ!』と
 額に裂傷を受けたパイロットにどなられた翌朝、
 報道写真家であると同時に、
 優しい心を失わないでいることの難しさについて
 自問自答してみた。

 しかし、死んだり、傷ついたりした場面こそ、
 戦争の真実を人々に訴えるものである。」

 

自分に戻ってくる

 

2012.08.18 旧ブログ投稿

 

「あなたはいったい誰ですか?」  (第7回)

沢田教一がカンボジアで撃たれた1970年、それまで寡黙で
決して他人に自分をさらすことのない沢田にはなかった
いくつかの変化が見られました。

後輩の赤塚俊介カメラマンを食事に誘ったり
平敷カメラマンに私生活のことを話し始めました。

平敷カメラマンは手紙に次のように綴っています。

「その時の沢田さんは僕らが今まで知っていた
 名カメラマン沢田教一じゃなくて、
 僕たちと同じように迷いも弱さもある人間沢田さん
 なんだなあと、とても親しみを感じたものです。
 
 亡くなられたあとも、何度も考えましたが
 個人的な悩みとか苦しみも含めて
 沢田さんが大きく変化しようとしていた時期だったことは
 確かなようです。」

沢田教一と寺山修司は全く違う人生を歩んだように
見えるけれど実は死の直前の変化は寺山にも現れました。

谷川俊太郎の言葉です。

「ある程度、死期が限定されてしまった時の寺山は、
 ほんとに普通の男になってたと思います。
 普通の男並に、悩み、苦しみ、悲しんだと思う。」

死の直前だから普通の男になってしまったのか。

それとも、普通の男になってしまったから死が訪れたのか。

それはわかりません。

ただ、それまでの二人の人生は

「自分はいったい誰なんだ?」

という命題をひたすら追いかけながら走ってきたものでした。

そして、死の直前になってやっと自分に
戻ってきたのではないでしょうか。

実は捜し続けていた自分はこんなにも弱くて、
まわりの人たちの存在の中で生かされているだけだ、

そう気がついたのかもしれません。

沢田はサタ婦人にはこうもらしていました。

「ぼくが死んでも困らないようにしておくから。」

寺山修司が享年47、沢田教一が享年34でした。

 

歴史は突然はじまりはしない

 

2012.08.19 旧ブログ投稿

 

「あなたはいったい誰ですか?」  (第8回)

……………………………………………………

この物語は19年前、私が29歳の時に写真学校の卒業論文として
書いた内容に加筆修正したものです。

当時の表題は

「あなたはいったい誰ですか 
 寺山修司と沢田教一、そして岡村昭彦から私へ」

参考文献

『書を捨てよ、街へ出よう』寺山修司 著 角川文庫
『寺山修司メモリアル』読売新聞社
『新文芸誌読本 寺山修司』河出書房新社
『新潮日本文学アルバム 寺山修司』新潮社
『ライカでグッドバイ』青木冨貴子 著 文集文庫
『カメラは私の武器だった』暮尾淳 著 ほるぷ出版
『戦争そのイメージ』ロバート・キャパ 著 井上清一 訳
                    ダヴィッド社
『鈴木清写真集 天地戯場』鈴木清 著 タマン・サリブックス

……………………………………………………
   

沢田教一を追いかけていくうちに、彼をベトナムへ行かせる
刺激になった岡村昭彦という人が気になってきました。

彼は世界の戦場を歩きながら、
「我々はどんな時代に生きているのか」を常に問い、
公器としてのマスコミの姿勢を批判してきました。

とりわけ強調したのは、
歴史は突然はじまりはしないということでした。

そのバックグラウンドを伝えないで、
あるいは、それに気が付かないでいて
センセーショナルに事件を報じるのは
マスコミが一般に与える影響は大きいので、
特に国際報道の場合はいましめなければならないと
主張しました。

そして、彼が身をおく場所は、いつも弱者の側にありました。

岡村は浜名湖の水問題についても熱心に活動し、
漁師の生活に同化して漁師のことばで、
わかりやすく説明につとめました。

「昔は(といっても10年ぐらい前)、雨が降ると
 雨水はゆっくりと森からしぼり出され、
 少しづつ栄養分を運んでくれた恵みの水だった。
 
 ところが、山をくずし、林をつぶし、
 家や団地を無計画に建てたおかげで、
 今では漁師にとって雨が降るのは、恐ろしいことになった。

 この湖は、遠い遠い昔に地震で太平洋とつながり
 塩水が出入りしているが、この市の乱開発で、
 第一水路の黒ノリの最大の漁場は全滅してしまった。

 その上、都会の野郎どもは、
 なんでも白くなればきれいになると思って、
 合成洗剤を使いやがる。
 
 その汚れた毒水が、おめえ!
 たまらないじゃねえか!

 みんな家庭排水という名前でたれ流しよ!」

この文章に岡村は、

「病んだ心と『神の水』の破壊」と題しています。

 

生命に関するすべてのもの

 

2012.08.19 旧ブログ投稿

 

「あなたはいったい誰ですか?」  (第9回)

その後、岡村昭彦は生命倫理の問題にも関心を持ち、
いのちについて真正面からとりくんでいきました。

その彼の心の底には『ライフ』と契約したばかりの1965年、
大先輩であるラルフ・モースに言われた次の言葉がありました。

「『ライフ』のカメラマンは、生命に関するすべてのものを
 カバーするのが仕事だぜ!
 戦争だけじゃないんだぜ!
 よくおぼえておきな!」

そのためには、人間の生の状況について
好奇心と知識をたえず持っていなければなりませんでした。

キャパや沢田、そして寺山が一直線で自分のアイデンティティを
追いかけて疾走していったのに対し
岡村は人間の生を、より深く見つめていきました。

極限状態の戦場でも、その場の生だけではなくて
バックグラウンドを把握することに軸足を置いていました。

香港で沢田が岡村に出会った1964年に私は生まれました。

関西では珍しく記録的な大雪が降った日でした。

それから29年間、私も「自分はいったい誰なんだ」と
問い続けてきたように思います。

小学校2年生の夏、父と毎朝ジョギングをしていました。

道路の右側を走っていましたがその道に並んで
農業用の水路がありました。

その日はなぜか
「目をつむって走ったらいったいどうなるんだろう?」
と思いました。

そして、即実行してみると、右側の水路に落ちてしまいました。

水深は浅かったのですが道路からは1メートルほどの
落差がありました。

小学生の私にはかなり高かったらしく
ふっと宙に浮いたような感覚がありました。

目をつむる直前、多分落ちるだろうとは思ったのですが
やってみたいという衝動を抑えられませんでした。

これが私の自分探しの原点のような気がしています。

未知の世界へ一歩踏み出す面白さを体験したのです。

そして、その先に自分の存在を確かめるための
「何か」があるような気がしていました。

 

いのちの誕生

 

2012.08.19 旧ブログ投稿

 

「あなたはいったい誰ですか?」  (第10回)

小学校6年生になる直前、父からこんなことを言われました。

「小学校最後の年だから何かに挑戦してみないか?」

そこで二人で相談して、なわとびを1年間で100万回
飛ぶことにしました。

1日に平均すると2740回になります。

およそ15分かかります。

1年間、これを続ければ100万回飛ぶことになります。

これは、私の人生で初めて設定した大きな目標でした。

4月8日の始業式の日から始めました。

基本的には、朝、学校へ行く前に飛びました。

半年間は順調に実行できました。

ほぼ、予定通りです。

しかし、10月から1ヶ月半の間、全く飛ぶことができない
日が続きました。

その理由は、私がニワトリの卵をあたため始めたのです。

理科の授業で、孵卵器を使ってニワトリの卵をかえすという
実験がありました。

その時、担任の先生が
「今まで一人だけ卵をだいてかえした教え子がいるので
 君たちもやってみないか?」と言ったのです。

私を含めて、10人が挑戦することになりました。

しかし、ほとんどの人が途中であきらめてしまい、
最終的には私一人になりました。

途中で落としてしまい、二度失敗してしまいました。

しかし、どうしてもかえしたくて、三度目の挑戦をしました。

理由は簡単です。

生まれたヒヨコは最初に見た動くものを親だと思うそうです。

私が温めているわけですから、生まれたヒヨコは
当然、私を一番最初に見ることになります。

そして、親だと思って私の後をついて歩きます。

それがとにかく楽しみで挑戦し続けたのです。

 

いのちの尊厳

 

2012.08.20 旧ブログ投稿

 

「あなたはいったい誰ですか?」  (第11回)

抱いていた卵を、お風呂に入る時は祖母に預けました。

学校の体育の時間は孵卵器に入れました。

それ以外の時間はいつも腹巻をして
その中に卵を抱いていました。

もちろん寝るときもです。

電灯の光を当てると少しづつ影が大きくなって
成長しているのがわかりました。

これがとても楽しみでした。

通常は、28日くらいでヒヨコになるのですが
人の体温はニワトリより少し低いので
30日くらいはかかるだろうと、先生には言われていました。

しかし、35日たってもヒヨコは生まれませんでした。

どうやら途中で死んでしまったようでした。

体温が低いのが原因ではないかと先生は言っていました。

3度の挑戦でとうとうあきらめてしまいましたが
この時の複雑な気持ちは言葉ではなかなか表現できません。

残念で悲しいんだけど、いのちの尊さを実感したように
思います。

この体験は「いのち」を自分の中で初めて認識した
出来事でした。

一方、なわとびの方は卵を抱いている間、
完全にストップしていました。

一度、休みグセがつくとなかなかペースを戻すことができません。

年が明けて、2月に入ってから急激に追い込みを始めました。

やると決めたんだから何が何でもやり通したかったのです。

1日1万回は最低飛ぶようになりました。

およそ1時間かかります。

そして、その頃には365日の約束だったのですが、
3月25日の卒業式までになんとしても100万回を
飛んでしまいたいと思うようになっていました。

4月8日から始めたので、当然日程は厳しくなります。

3月に入るともっとペースを上げて
多い時は、1日5万回飛ぶ日もありました。

1日5時間、ひたすら飛び続けていました。

今思えば、よくそんなことができたものだと
感心してしまいますが、あまり深く考えないで
ただ、卒業式までにやりとげたいという気持ちが
あっただけでした。

飛んでいる間、いったい何を考えていたのだろう?

小学校6年生のわたしにとっては
1年間で100時間にも及んだこの時間は
もしかしたら瞑想のような時間だったのではないか。

今思えばそんな気がしてきます。

 

魂は何処へ

 

2012.08.20 旧ブログ投稿

 

「あなたはいったい誰ですか?」  (第12回)

卒業式の日の朝、5時30分35秒に
100万回をなんとか達成できました。

この瞬間は17年たった今でも鮮明に思い出すことができます。

木戸のレールの上においていた
黄色い目覚まし時計の秒針が35を示していました。

一年間、ただ飛び続けた100時間は
当時の私に何を残してくれたのでしょうか?

確かに目標に挑戦してそれを達成した感激はあったけれど
目標を決めてそれへ向かって日々突き進むといった
計画的なものではありませんでした。

ただ、やりたいからやった。

それだけだったように思います。

友だちと一緒に何かをするのは好きだったんだけれど
一人で何かに打ち込むほうが性に合っているようでした。

中学校時代は囲碁・将棋と卓球に明け暮れ
高校時代はブラスバンド一筋でした。

大学に入ってからも軽音楽やテニスなど
いろいろなことをやりましたが一番のめり込んだのは
自転車での旅でした。

大学の4年間で北海道から九州までずいぶん旅をしました。

一番印象に残っているのは、学生時代最後の旅になった
東北・北海道。

行ったのは冬でした。

自宅を出発してフェリー埠頭まで走っていく間
「もしかしたら死ぬかもしれない」
と、自分の中で初めて死を意識しました。

雪道を自転車で走るのです。

すべって転んで後ろから車が来たら・・・

今、冷静に考えれば
よくあんな危ないことをしたものだなあと本当に怖くなります。

幸いにも事故は起きませんでしたが
他人に多大な迷惑をかけるし、家族に悲しい思いをさせること
など全く考えていませんでした。

勝手なものです。

どうしてこんな冬に自転車で東北へいくのか、と聞かれた時

「魂が行きたがっているから」

と答えた記憶があります。

私にとっては、自分さがしの旅だったのです。

旅先ではいろいろな人の暖かさにふれることができました。

十和田湖で出会ったおまわりさんは駐在所へ招き入れてくれて
暖かいお茶をごちそうしてくれました。

そして、私が出発したあともわざわざ追いかけてきて
良心的な民宿を紹介してくれました。

北海道で泊めてくれたお宅では翌朝出発するときに
おむすびまで作ってくれました。

早来駅の駅舎に入ってストーブに暖まりながら食べた
あのおむすびの味は忘れられません。

たった一人で自分さがしの旅をしているつもりだったのは
大きな勘違いでした。

「友情のようのな人間のエモーショナルなつながりの上にこそ、
 生命の充足があると信じている。」

まさに、寺山が言っていたとおりでした。

 

迷いと虚栄心

 

2012.08.21 旧ブログ投稿

 

「あなたはいったい誰ですか?」  (第13回)

大学時代は自転車で旅をする一方
当時はまだほとんど知られていなかった
トライアスロンを始めました。

私が住んでいた県内でも
4~5人しかやっている人はいませんでした。

大学4年の春、前年に湘南で行われた小さな大会に
出場した経験があるというだけで
宮古島で開かれた第1回の全日本選手権に
出場することができました。

それだけ、経験者が少なかったのです。

この大会は、水泳3キロ、自転車136キロ、そして42.195キロの
フルマラソン。

100位以内を目指していたのですが
自転車で足が痙攣してフルマラソンは全く走ることが
できませんでした。

15時間45分かかってなんとか完走だけはできました。

どうしてこんな無茶なスポーツをしたのか。

自分に挑戦したかった。

それが大きな理由かもしれませんが
これも自分さがしの一つだったのかもしれません。

マラソンランナーの君原健二さんはこう言っています。

「僕は一体何者なのかわからない。
 でも、もう少し走れば、あの地平線を超えれば」

私にも全く同じ気持ちがありました。

当時の自分には大きな迷いがありました。

大学を卒業してどうするのか?

そして、その先の将来は?

何も答えを見つけられないでいました。

その状況から逃げたかったのかもしれません。

自分を極限まで追い込んだら
何か見えてくるかもしれないというわずかな期待と、
自分は普通の人間ではないという虚栄心を
満たすために走っていました。

結果的には何もわかりませんでした。

ただ、一歩一歩でも歩いていれば確実にゴールにたどり着く
ということを改めて実感したことと、
素敵な友人に出会えたことが大きな財産になりました。

 

テーマ「 いのち 」との出会い

 

2012.08.21 旧ブログ投稿

 

「あなたはいったい誰ですか?」  (第14回)

大学卒業後の進路は相当迷いましたが
最終的に私が選択したのは山ぐらしでした。

その前後のことは1993年に、あるエコロジストが集まる会の
会報に載せた文章がありますので
それをを引用させていただきます。

……………………………………………………

いのち

今年の5月でした。

環八から世田谷通りへ入る手前をバイクで走りながら、
自分のテーマはいったい何なんだろう?

今の自分を突き動かしているものは何?

と考えていました。

その時に浮かんだのが「いのち」という三文字でした。

謎が解けた思いでした。

中学生時代からの自分の行動の中心に一本の線が
ひかれたのです。

私の実家は農家なのですが、私が中学生の頃から
大学を卒業して農業をやりたいという青年が
出入りするようになりました。

彼らに家庭教師のような感じで勉強を教わりながら
いろいろな話を聞くうちに、無農薬農業や
環境問題に関心をもつようになりました。

学生時代は自転車で全国を旅しました。

その中でも四国の屋根、石鎚山の林道を夜走った時のことを
よく思い出します。

空には一面の星。

街の明かりは、はるか眼下。

怖いという感覚は全くありませんでした。

逆に大自然に抱かれている安堵感と充足感につつまれていました。

しかし、今自分が走っている林道は
自然破壊にほかならないという矛盾。

これがとても悔しかったです。

大学卒業後は自然の中で暮らしている師匠のもとに弟子入りし
さまざまな事を教わりました。

山を開墾し畑を作り庭を作る。

家も自分で建てました。

6年近く山ぐらしをしましたが、その途中で師匠の奥さんの病死
という、あまりにも大きすぎて自分でそのことを把握すらできない
事件がありました。

最近になって自分の行動の根っこには
彼女の死があるんだということがわかりかけてきました。

 

大地があれば生きていける

 

2012.08.21 旧ブログ投稿

 

「あなたはいったい誰ですか?」  (第15回)

6年近く山ぐらしをした後、東京へ来て写真の勉強を始めました。

山ぐらしに不自由はありませんでした。

自分で食べるものはお米以外の野菜は全て作っていました。

夏、薪を切っておけば石油がなくても
暖かい冬をすごすことができました。

畑を作ったり、庭を作ったりする土仕事は不思議な安心感が
ありました。

大地があれば生きていける。

それを実感したことも事実です。

ただ、そのままその暮らしを続けていくことはできませんでした。

自分はこうして幸せな暮らしができているのに
遠い海の向こうでは食べるものがなくて
命を落とす子供たちがいる。

僕はこのままでいいのだろうか。

そう思ったのです。

思い立ったら行動しないではいられませんでした。

報道写真家になって事実をもっと多くの人に伝えたい。

その思いを実現させるために写真学校に入りました。

まだ半年しかたっていませんが
その面白さや、奥の深さは思っていた以上でした。

今は、街を歩いている人を撮っていますが
この、何気ない日常からその根底にある何かを
表現できれば、と思っています。

たぶんそれは「いのち」につながっていく・・・

先日、日野市にある重度身体障害者更生援護施設の園生で
組織されているバンドのコンサートの写真を
撮らせていただきました。

彼らのことはNHKのニュースで知ったのですが
今回、私が住んでいる世田谷でコンサートがあったので
撮影をお願いしたのです。

盲重複障害というハンディキャップを超えた
彼らの素晴らしい演奏を前にして、私は、ただ
シャッターを押していました。

このように、身近なところにある「いのち」の輝きを見つめながら
海の向こうでは数えきれない人達が飢えや病気で
死んでいる事実からも目を背けないでいたいと思っています。

今日、写真学校の校長の葬儀がありました。

66歳で病死でした。

一度も私の作品を見ていただくことはできませんでした。

私の思いは、また強くなりました。

……………………………………………………
(会報への投稿文章終わり)

 

千の写真の向こうにあるもの

 

2012.08.21 旧ブログ投稿

 

「あなたはいったい誰ですか?」  (第16回 : 最終回)

1993年5月に三軒茶屋のアムス西武(現:西友三軒茶屋店)
5階の本屋で始まった旅は、寺山と沢田を両輪にしながら
岡村までたどり着きました。

では、私にとって

「あなたはいったい誰ですか?」

この質問に対する答えは得られたのでしょうか?

残念ながらそれは見つかっていません。

やっとその答え探しの入り口に立てただけのような気がしています。

人間は何のために生まれてきたのか。

人生の目的は何なのか。

なぜ働くのか。

鈴木清氏は氏の写真集『天地戯場』の中でこう書いています。

「混沌とした天地[シャバ世界]に触れ
 網膜にカスんでは消える意識の海原の中で、
 分かろうとするたった一語[名づけるための]を探すこと・・・。
 これからも、そのために千の写真を積まなければならない。
 ま、徒労の疲れにこそ快楽はあるハズだろうから・・・。」

私も千の写真を積みながら、
魂の声に耳を傾け、
自分の心臓すら自分で自由に動かせない
自分の呼吸すら自分で管理できない
そんな自分とはいったい何なのかを問い続けていきます。

(終わり)

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この物語は19年前、私が29歳の時に写真学校の卒業論文として
書いた内容に加筆修正したものです。

当時の表題は

「あなたはいったい誰ですか 
 寺山修司と沢田教一、そして岡村昭彦から私へ」

参考文献

『書を捨てよ、街へ出よう』寺山修司 著 角川文庫
『寺山修司メモリアル』読売新聞社
『新文芸誌読本 寺山修司』河出書房新社
『新潮日本文学アルバム 寺山修司』新潮社
『ライカでグッドバイ』青木冨貴子 著 文集文庫
『カメラは私の武器だった』暮尾淳 著 ほるぷ出版
『戦争そのイメージ』ロバート・キャパ 著 井上清一 訳
                    ダヴィッド社
『鈴木清写真集 天地戯場』鈴木清 著 タマン・サリブックス

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2012 年 そして、今わたしは

 

2012.08.22 旧ブログ投稿

 

私が19年前に書いた写真学校の卒論「あなたはいったい誰ですか?」
を長期にわたってご覧いただきありがとうございました。

最初は、表題の問いかけの意味することを
2つくらいの記事で書こうと思ったのですが
反響が大きかったのでほぼ全文を載せさせていただきました。

このブログの表面的なテーマはFXです。

そして、中心になるのが心とお金の関係性です。

実は、もうひとつ大きな大きな裏テーマがあります。

私が書いた卒論が、この裏テーマの取っ掛かりに
なりそうだったので全文掲載を決めました。

その裏テーマは後ほど書かせていただきますので
楽しみにしていてくださいね。

では、あれから19年たって「あなたはいったい誰ですか?」
の答えに私自身はたどり着けたのか?

実はその答えの一つがこのブログです。

写真学校にいた時は報道写真家になろうと思っていました。

世界で起きているありのままの事実を伝える。

それが自分の役割だと思っていました。

しかし、それから数十万カットの写真を積み重ねましが
答えにはたどり着けませんでした。

その後、環境問題の活動にのめり込んで講演会を主催して
全国を飛び回った時期もありました。

大好きな建築の世界に足を踏み入れ
日本の風土に適した本来の建築は何なのか
徹底的に追求もしました。

このあたりの私の放浪記もおもしろいのでそのうち
掲載していこうと思っています。

そして、やっとたどり着いた答えがこれです。

「ひとりひとりの心の充足」

遠い国の飢えに苦しむ子供たちも
この国のいじめに苦しむ子供たちも
地球規模の環境破壊も
まず、自分自身の心の充足からはじめないと
解決しないのではないか。

私は問題の起源や解決方法を外に求め続けてきました。

しかし、そこに答えはありませんでした。

 

答えは自分の中に

 

2012.08.22 旧ブログ投稿

 

もう一度、卒論の中の文章を書きます。

マラソンランナーの君原健二さんはこう言っています。

「僕は一体何者なのかわからない。
 でも、もう少し走れば、あの地平線を超えれば」

私も同じでした。

走り続けていれば何か見えるかもしれない。

そう思っていました。

ひたすら求め続け走り続けました。

そして、数年前、事業で失敗して多くの人に迷惑をかけました。

その時、初めて立ち止まることの大切さを知りました。

立ち止まらざるをえない状況の中で
答えはすべて自分の中にあることに気が付きました。

寺山修司の言葉をもう一度書きます。

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わたしは、友情のような人間のエモーショナルなつながりの
上にこそ、生命の充足があると信じている。

だから、政治の変革より、人間の変革、情念の変革を
めざすのだ。

福祉国家で自殺者が多いのはなぜか。
わたしは政治ではすくえない”心の荒野”を問題にするのだ。

…………………………………………………….

言葉で思いや感覚をお伝えするのはとても無理があります。

残念ながら私の文章力では不可能かもしれません。

「ひとりひとりの心の充足」

その、ひとりひとりというのは私自身だし、あなた自身です。

自分を大切にすることからすべてが始まります。

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人間にとって最も悲しむべきことは
病気でも貧乏でもない。

自分はこの世に不要な人間なのだと思い込むことだ。

そしてまた、現世の最大の悪は、
そういう人にたいする愛が足りないことだ。

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マザー・テレサはこのように言っています。

私は、誰かのためではなく「自分のために」FXをやっています。

「誰かのため」にやっていると
失敗した時に「誰かのせい」にしてしまいます。

まず、自分でいいのではないでしょうか。

自分自身が幸せであれば、
ほうっておいても、まわりに伝わっていきます。

FXを自分自身を幸せにする一つの道具としてとらえて
真剣にトレーニングすれば必ず糸口になります。

一攫千金を求めてFXに取り組んでいる人は
答えをひたすら外に求め続けていた以前の私のように
なかなか正しい答えにたどり着けないかもしれません。

答えはあなたの中にあるのです。

地道なトレーニングを続けたあなたの中に、必ず答えはあります。

真実は地味だからです。